材料開発の世界で、半世紀にわたって「夢」とされてきた技術が、今、現実のものとなりつつある。AIが原子レベルから物質を設計し、数ヵ月かかっていた材料探索を数時間で完了させる──。これは単なる効率化ではなく、物質文明そのものを書き換える「マテリアル革命」の幕開けである。
この革新の中心に位置するのが、AI分野で先進的なPreferred Networksとエネルギー大手ENEOSのジョイントベンチャーから誕生した日本発スタートアップ、Matlantisだ。2025年11月、同社は世界最大手であるロレアルが主催するイノベーションプログラム「ビッグバン・ビューティーテック」のR&D部門で優勝したことを発表し、注目を集めた。これは、電池や半導体といった無機材料のみならず、化粧品原料など複雑な有機物の設計にも同社の技術が有効であることを実証した結果である。
2000万倍の高速化──50年越しの夢が現実に
「シミュレーションで材料探索をしようという手法自体は、50年ほど前から存在していた。しかし従来、高精度な計算手法である密度汎関数法(DFT)は、半日から1週間、研究レベルでは1ヵ月もの計算時間を要していた。そのため、実際の材料開発の現場で活用することは困難だった」──Matlantis 海外営業部 部長 松島亮氏はこう語る。
しかし今、状況は一変した。Matlantisが開発したAIモデル「PFP(Preferred Potential)」は、従来法と比較して2000万倍という驚異的な高速化を実現。瞬時に計算が完了する時代が到来したのだ。
これにより、バーチャル空間で1万回のトライアンドエラーを行い、有望な条件だけを実験に渡すことが可能になった。結果として、実験に必要な試行回数、人的リソース、コストを大幅に抑え、圧倒的な速度と低コストで新材料の探索ができるようになったのである。
「実験主体」から「計算主体」へ──研究現場で起きたパラダイムシフト
この技術革新は、研究現場における働き方そのものを大きく塗り替えつつある。AGC株式会社では、従来は実験を中心に置いていたが、Matlantisを活用することで、まず計算から始めて実験へ進むという新たな開発サイクルが生まれた。
トヨタ自動車では、これを「材料開発におけるパラダイムシフト」と表現している。従来の方法では3ヵ月程度かかっていた材料探索が、Matlantisを活用した新たな方法では、わずか1週間程度に短縮されたという。
Matlantisを活用すると「この構造はどんな性質を持つか?」という順方向の探索から、「この性質が欲しい」というゴールに向けた構造を逆引きする「逆設計(インバースデザイン)」への転換が原理的には可能になる。研究者は単なる「実験作業」から解放され、高度な「仮説立案の司令塔」へと変貌を遂げている。
Preferred NetworksとENEOSの合弁が生んだ技術革新
Matlantisの誕生は、日本を代表する2つの企業の戦略的提携から始まった。2021年6月、深層学習技術で世界的に知られるPreferred Networksと、エネルギー・素材産業の大手ENEOSが、2社でジョイントベンチャーを設立。当初は「Preferred Computational Chemistry(PFCC)」という社名で、「Preferred」の名を冠していた。
この合弁の狙いは明確だった。Preferred Networksが持つ最先端の深層学習技術と、ENEOSが長年の素材開発で培ってきた膨大な実験データや産業知見を融合させることで、従来は不可能だった「実用的な速度での高精度材料シミュレーション」を実現することである。
代表取締役社長の岡野原大輔氏は、Preferred Networks創業メンバーの1人であり、自然言語処理(NLP)を専門とする研究者としてキャリアを重ねてきた。岡野原氏は、原子を「宇宙を記述する語彙」として捉える独自の視点を持つなど、既存の枠組みにとらわれない発想力が特徴的と評価されている。また、コンピューターサイエンスや計算科学にも幅広い知見を有しており、多様な分野の知識をもとに、技術経営や研究開発の双方でリーダーシップを発揮している。
2024年6月に三菱商事が資本参加、そして2025年7月、同社は製品ブランドである「Matlantis」を社名として採用する大きな転換を図った。Preferred NetworksとENEOSの合弁から生まれた技術を受け継ぎつつ、独自のブランドとして世界市場で認知される独立したプラットフォーマーとしての道を歩み始めたのだ。
2000万倍を実現した核心技術PFP
同社の中核技術であるPFPは、約5900万件に及ぶDFT(密度汎関数法)計算データを用いて構築されたAIモデルだ。これまでシングルGPUでは数千年かかるとされていた計算も、高速に処理できるようになり、DFTに匹敵する精度を維持しつつ、計算時間の大幅な短縮を実現している。
さらに注目すべきは、その汎用性だ。用途を選ばないユニバーサル性が大きな強みであり、自動車のバッテリーや排ガス触媒、半導体、ガラス、高分子、合金、さらにはノーベル化学賞を受賞した北川進氏が科学顧問を務めるAtomis社のメタルオーガニックフレームワーク(MOF)まで、幅広い材料に対応している。
Matlantisは現時点で150の組織、900以上のライセンスユーザーを抱え、グローバルに展開している。
海外では、ヒョンデ自動車、フォルクスワーゲン、アクゾノーベル、MIT、スタンフォード大学、韓国ソウル大学など、産業界のみならずアカデミアでも標準ツールとして採用が進んでいる。
